Columnデザインしよっ!

2024.05.22

クラフトからインダストリーへ。モリスはん、今でも僕らはもがいてます。

昔の本棚から引っ張り出してきた「カラー版 世界デザイン史」(美術出版社)
2002年の版になっているので、多分僕がデザイン会社に入って3~4年目に買ったものだと思う。
同じころにこれも美術出版社の「モダン・デザイン全史」というのも買っている。

紹介しようと思ってアマゾンさんに行って見れば増補新装版が出ていた。。。

デザイン学校では教えてくれなかった(or、教えてくれたけど聞いていなかった)ので、改めてこういう基礎的な知識に飢えていたのだと思う。

「デザイン」という概念がいつできたかはともかく、デザインの範疇で語れてしまえるものを歴史的に見ていけばラスコー洞窟の壁画だって入れちゃえるので、近現代的な意味でのデザイン。

つまりは工業生産とむすびついた産業の中での「デザイン」の話をすると、その最初期に重要な役割を果たした人物としてモリス紹介のウィリアム・モリスが出てきます。

デザイン史を見ていくと、やっぱりこのあたりの葛藤はずっと続いている。
100円ショップの食器のクオリティは本当にすごい。
かつては職人さんの領域だった。
これがただ、職業の話なら技術の進歩の常だとしか言いようがないんだけど、手仕事の話になると一緒に滅んでいくもろもろ・・・文化とは言いたくない、なんだろう、場とか空気とか、おそらく一緒に消費されていたであろう価値観・・・のことを思ってしまう。

でも、でも、それを保護するとか言い出すと、それはそれでもう違うものになってしまう。守られて維持するためにどこかの瞬間を切り抜いても意味がない。たとえば伝統的なやり方と言って、どこまでさかのぼる??? 技術は同じことの繰り返しではなく、どんな伝統工芸もその時代の技術で進歩をし続けているので、さかのぼってどこか一点をそれと定める必然性はどこにもない。進歩を止めてしまう事もまた、それらを異質なものにしてしまう。

町の一角で最先端を担っていた手仕事と、博物館に飾られている手仕事は根本的に異質なんだと思う。だからもはや僕は悶々するしかない。

ウィリアム・モリスは19世紀後半に粗悪な工業製品が良質の手仕事を駆逐し、技術を途絶えさせ、貧富の拡大を巻き起こしていくことに強烈に警鐘を鳴らし、そして行動したひとです。

デザイナーとしても、詩人としても作品を残している人です。

100年以上たった今、モリスが工業化の波から守ろうとした「作り手の喜び」は、いろんな側面で大切にされようともしているようにも思える。でも、コンセプトが勝ちすぎているのはどうにも好きになれない。というか、そういうコンセプト(おとぎ話的なストーリー)を消費する体験としてでしか維持できないものになってしまったのだろうか?

コンテンツデザインを考える僕がコンセプトを嗤うのは天に唾するような逸脱なんだけど、それでも思わずにいられないんですよね。

多分それは日本のデザイン文化が、手工業から工業化と西洋化が同時に起きたこととか、隣の芝生的なこととかいろいろ混ざってるんだと思う。僕自身が全然インプット不足な側面もありそうです。

さて、件のウィリアム・モリスですが、隣の芝生ポイントでもあるのですが、現代でもバリバリのデザイン柄です。著作権が切れるくらい時間がたっても。「いちご泥棒」は有名な柄なので見たことある人も多いのではないでしょうか。今でも人気ですよね。
高級ブランドのカーテンもあります。

西宮、苦楽園にあるウイズ苦楽園さんは知る人ぞ知るカーテン、カーペットの聖地です。

ウイズ苦楽園ホームページ
https://with-21.net

なかなか海外ブランドの実物のカーテンを展示しているお店は少ないので、ファブリック好きにはたまらないお店です。

そのウイズ苦楽園さんウイリアム・モリスのページ。
現代各社から出ているカーテンなどのアイテムが見れます。

https://with-21.net/curtain/williammorris.html

そして、著作権がきれている関係もあって、100均のノートとかにもなっています。
100均のほうはなんかモリスに怒られそうなのでちょっと複雑なのですが、でも、100均は別の意味で日本の文化になっている。単純に否定はできない。

この100均があらたなプチ手仕事・・・趣味のクラフトのネタにもなっているわけで、そこには別の職人的な価値が生み出されているとも言えなくもないし、それもまた文化と言っていいと思う。

いろんな方法で100年前の手仕事を今に息づかしているのは、今の価値観。今の人々だから、その事実を大切にしないといけないですよね。
ウェブデザインであってもその延長線上にあるんだと思うと、デザイン史はもっと勉強したいですね。